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「アナ・ウィントゥアーが髪を染めた時」

2004年5月、NYのメトロポリタン美術館で恒例のファッションイベントが開かれました。毎年、この時期にVogueを出版しているコンデナスト社が主催するイベントは、各有名ブランドがスポンサーとなって開催するもので、2003年はグッチによる女神展が開かれ、NYに女神ブームを巻き起こしたともいわれました。2004年は、ガラードによる「危険な関係」で、このイベントにあわせ、コンテナストのニューハウス社長、米国版Vogueの編集長であるアナ・ウィントゥアー(Anna Wintour)、そしてスポンサーであるブランドの連名により主催されるパーティも毎年、その年のベスト・パーティに選ばれるほど、話題を集めます。有名デザイナーがスーパーモデルを伴って出席し、ハリウッドスターも数多く参加します。ちなみに2005年はシャネル。2006年はバーバリーがスポンサーになり、英国をテーマにした「「AngloMania」が5月4日から8月29日まで開催されます。

しかし、2004年のパーティで最も話題を集めたのはスターでも、モデルでもデザイナーでもなく、アナ・ウィントゥアーでした。彼女は髪を金髪に染めて、出席。単なる、エディターが髪を染めただけで、ニュースとして取り上げられるのも、驚きですが、他のエディターが髪を染めても、これだけの話題は集められなかったでしょう。それだけ、ウィントゥアーの存在感は他を抜きん出ていることの証明でもあります。

アナ・ウィントゥアーが注目したコレクションは、それだけでファッション界に衝撃を与えます。例えば、NYコレクションにデビューしたTHAKOONは、ウィントゥアーが気にいり、その作品をすべて押さえたため、他のファッション誌は、その作品を掲載できずに、ウィントゥアーが注目したことを記事にするくらいです。

38歳の若さで、Vogueの編集長に抜擢されたアナ。Vogueの歴史はその編集長の歴史でもあります。もともと、Vogueは、1892年にアメリカで週刊の社交界雑誌として誕生しました。それを1909年にウィリアム・コンデ・ナストが買収。1910年10月から月2回刊となり、ファッション誌に生まれ変わります。コンデ・ナストは1873年、NYに生まれ、「コリヤーズ・ウィークリー」、婦人服のパターン製造業者を経て、「Vogue」を買収。その後、「ヴァニティ・フェア」や「ハウス&ガーデン」、「グラマー」、「マドモワゼル」、「GQ」などを出版するコンデナスト・グループを創立します。

コンデ・ナストはまだ、挿絵が中心であった時代にいち早く写真に注目しました。有能な写真家を次々とVogueに起用。パリモードをアメリカに紹介すると共に、1916年にはイギリス版を発行、1920年にはフランス版を出版し、早くから国際展開を進めました。型紙の進化や都市生活者の増加などを背景に、コンデ・ナストは初めて、「クラス・マガジン(高級誌)」を提案した人となります。

1914年に編集長となったエドナ・ウールマン・チェイス(Edna Woolman Chase)は、伝説的なエディター、カーメル・スノウ(Carmel Snow。後に、ライバル誌、ハーパーズ・バザールに移籍。コンデナストは二度と彼女と話すことはなかったという)とともに多くの才能ある写真家やライターを発掘。アメリカのファッションをリードします。

1960年代には、ダイアナ・ヴリーランド(Diana Vreeland)が君臨。カーメル・スノウに見出された彼女は27年間、「ハーパーズ・バザール」のファッションエディターを勤め、1962年にヴォーグに移籍。9年間編集長を務めた彼女が作った標語「ビューティフル・ピープル」は60年代の雰囲気を象徴する言葉とされ、この時代に発行部数は40万部に達しました。1972年にはメトロのCostume Instituteを創設し、冒頭にあげたイベントの特別コンサルタントもダイアナ・ヴリーランドが務めていました。

オードリー・ヘップバーン主演の映画、「パリの恋人(Funny Face)」の編集者のモデルといわれたダイアナは、あのトルーマン・カポーティに「アメリカ女性の趣味の良さに最も貢献した。彼女は天才だが、その天才ぶりは一部の人にしか分からない。なぜなら彼女の天才ぶりを理解するにはこちらも天才でなければならないからだ」と評されました。彼女はハーパーズ・バザールで主役、ヴォーグでスター、メトロで大スターになったとされています。

72年からはグレース・ミラベラ(Grace Mirabella)が編集長に就任。この時代についに発行部数は100万部を超えました。しかし、1988年8月、突如、編集長がアナ・ウィントゥアーに交代されます。1930年生まれのミラベラは自分よりも20歳も若いウィントゥアーに編集長の座を譲ることとなりました。この交代劇は高級志向に陥りがちだったVogueの若返りを図るために、あえて38歳のウィントゥアーを起用したと見られています。こうしたコンデナスト社の方針にミラベラは納得できるはずもなく、彼女はマードック社から、新雑誌創刊のオファーを受け、自らの名前を冠した「ミラベラ」を編集長として発行することとなります。

再び、若者の脚光を浴びるべく期待されたウィントゥアーはその期待に見事に応えます。カール・ラガーフェルドは彼女のためにコレクションを捧げ(2005年のメトロのコスチューム・インスティテュートのスポンサーはシャネル。パーティの主催はラガーフェルドにウィントゥアーとニコール・キッドマン)、パリコレでは彼女の動向に注目が集まります。賛否両論だったジョン・ガリアーノによるディオールの2000年春夏オートクチュールコレクション「ボロドレス」も、ウィントゥアーが支持したからこそ(ガリアーノは彼女のお気に入りだった)失敗に終わらずにすんだとの声もあります。

しかし、そんなアナも、編集長に就任してから18年になります。18年という数字は前任者のミラベラの在任期間16年を上回り、ミラベラが交代させられた時の年齢に近づきつつあります。一部では、交代の噂も出ており、問題は誰が後継者になるのかです。

一部には、パリス・ヒルトン並みのパーティ少女として知られ、「Teen Vogue」の補助エディターを務めている娘のBEE SHAFFERを抜擢するつもりだとの声もありますが、さすがに娘というだけで、あまり実績のない(パリコレではアナの横に座っていることも多いですが)娘を起用するのは難しいでしょう。

一方で、アナの存在感の高さから「アナ王朝」はまだ、まだ続くとの見方もあります。ともあれ、デザイナー交代並みに編集者の後継が話題になるエディターもそうはいないでしょう。その事実だけでも、アナのパワーを感じさせます。

[Gin and it]

 
 
●「マネキンは時代を映す」(2005.7)

●ハッピー30!ケイト・モス(2005.3)

●マリア・シャラポワとアーノルド・パーマー(2005.2)

●「混乱続くNYコレクション」(2004.9)

●「さよならトム・フォード、デザイナーとブランド」(2004.3)

●「スーパーモデルの復活とコレクションスキャンダル(2003.10)」

●ブランドブームの終焉?(2003.4)

●ウィノナ・ライダーが欲しかったもの(2003.3)

●ブランドとモデルと芸術家の優雅な関係(下)(2003.1)

●ブランドとモデルと芸術家の優雅な関係(上)(2002.12)

●展示会あれこれ(2002.11)

●「コレクション、パリやミラノでも混乱」(2002.10)

●ニューヨークコレクション無事開催へ(2002.9)

●雨の日にプラダの傘(2002.9)

●カルティエ銀座店訪問記(1998)

●エルメス銀座店オープン、その戦略は?(1998)

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