BALENCIAGA バレンシアガ France |
歴史・解説
バレンシアガの創業者、クリストバル・バレンシアガ(Cristobal Balenciaga Eisaguirre)は、1895年1月21日、スペインのサンセバスチャン(San Sebastian)、Guetariaに生まれた。父親は漁師で、1910年までお針子をしていた母親から仕立てとドレスメイクを習い、独学で裁断と縫製を学ぶ。14歳の時、カサ・トレス侯爵家(Marquesa de Casa Torres)で見た夫人の衣装を複製したのがきっかけで、1915年、夫人の支援を得て、テーラーリングビジネスを開始する。マドリードのテーラーを経てサン・セバスチャン、マドリード、バルセロナにメゾンを開き、1930年頃には、既にスペインファッション界をリードするクチュリエになっていた。しかし、1936年、スペイン市民戦争が起き、バレンシアガは3店に増えていたクチュール・ハウスを閉め、スペインを去る。ロンドンでしばらく過ごした後、1937年、パリのジョージ5世通り(アヴェニュー)10番地に「ハウス・オブ・バレンシアガ」を開業。シンプルで完璧なシルエットはたちまち評判となり、パリファッションの象徴として世界的な名声を得る。1938年には、後のディオールの「ニュールック」の前身ともいえるスタイル、ウエストシェイプされ、なだらかなワイドスカートのスーツを発表していた。
第2次大戦後、バレンシアガの名はさらに高まり、クリスチャン・ディオールとともに、国際的な名声を得る。デッサンはせず、マヌカンに生地をまとわせて直接、裁断するといった形でドレスは生み出され、バレンシアガは「マスター・オブ・イルージョン(Master of illusion)」と呼ばれ、繊維素材を立体的に捉えることができると評された。
バレンシアガは生涯結婚しなかったため、ゲイだったとの噂もある。彼はプライベートを大事にし、公の席で個人的生活について語ることがなかった。しかし、ココ・シャネルは彼との論争で「彼は女性を好きじゃないのよ。彼のブラウスは、首のしわをわざと見せるためにあんなデザインなのよ」と主張(ココらしい発言という気もしますが)した。
一方で、バレンシアガの服は女性の欠点を露出するのではなく、隠すような服だったといわれる。彼はしばしば、クライアントとの当初の約束を守らずに、女性の身体にあわせてシルエットを変更。バレンシアガは「女性は完全である必要はなく、また私のドレスを着用するためには美しくある必要はない。私のドレスが女性を美しくするのだ(A woman has no need to be perfect or even beautiful to wear my dresses, the dress will do that for her)」と語った。
バレンシアガは完全主義者で、「顧客に披露する前に衣服は完全であるべき」と主張。さらに、スケールとプロポーションに加え、バランスこそが最も重要であると考えて、極端に大きいか、驚くほど小さい帽子(1946年に発表され、錠剤箱と呼ばれた)は彼の特徴的なシルエットのために使われた。彼は、他のファッション・デザイナー以上に、シルエットを変更。ニュールックが発表された後の50年代には、あえてアンシェイプなソフトスーツ、ジャケットを発表。50年代には他にウエストラインを持たない「バレル・ルック」やシンプリシティを追求した「サック・ドレス」を発表した。
とくに、1957年に発表した「ベイビー・ドール・ルック(baby doll look)」は、彼の名を一層高めた。ベイビードールはスペインの芸術と民族衣装からインスピレーションを得たもので、彼の才能を最もよく表現しているものである。
時流や他のデザイナーに迎合することなく、1963年にはあえてビニールのレインコートを発表。一部のプレスが「あまりにもこれはチープではないか」と質問しようとすると、あるバイヤーがそれをさえぎり、「バレンシアガが発表したならこれはハイファッションである」と語ったという伝説も伝えられている。
しかし、1968年、バレンシアガは「プレタポルテを始めるには年を取りすぎている」との名言を残し、オートクチュール事業を閉鎖。引退してスペインに戻った。「バレンシアガのモードに影響を受けないデザイナーはいない」と言われ、メゾンからはジバンシー、クレージュ、ウンガロを輩出した。1972年3月23日死去。その後、「バレンシアガ」はジャック・ボガート(Jacques Bogart)によって所有され、彼が率いるフランスのフレグランスとファッションのグループによって引き継がれる。1986年までは、香水ブランドとして継続された。しかし、「バレンシアガ」のプレタポルテコレクションは、1987年にリスタートし、1989年にはブティックも再オープン。1995年、同グループにニコラス・ゲスキエールが入社する。
ニコラ・ゲスキエール(Nicholas Ghesquiere)は、1971年5月9日フランス生まれ。フランス中部の小さな町Loudunで育ち、ベルギー人のゴルフ場マネージャーの父と、フランス人の母親の間に生まれた。幼い頃からファッションに親しみ、11歳でスケッチを描いていたといわれ、14歳でアニエスbのインターンシップを受ける。「コリンヌ・コブソン」などでキャリアを積んだ後、4年後、ジャン・ポール・ゴルチエの元で働き始め、この頃、初めてNYを訪れ、その街を愛するようになる。2年間ゴルチェのデザイン助手として働いた後、フリーランスのニットウェア・デザイナーとして過ごし、1995年にバレンシアガに入社。1995年にバレンシアガに入社。2年後、当時のプレタポルテ「Le Dix collection」のヘッド・デザイナーはベルギー人のJosephus Thimisterだった。ティミスターがクラウドノイズを伴うひどいショーを開催して辞任した後、未知のデザイナーであったゲスキエールがわずか26歳で抜擢されることとなる。
1997年、ジャック・ボガートは、日本のライセンス・パートナーのためにゴルフウェアなどをデザインしていた社内のデザインチームの若手、ニコラ・ゲスキエールにデザインを任せることとする。「私は、当時何のプランも持ち合わせていなかった」とゲスキエール。「私は自分でデザインをしたいとずっと考えていました。でも、それは、私が望んでいた形ではなかったのです。でも、現実に私は仕事を望んでいたのです」。
彼のデビューコレクションは、98年春夏に発表され、衝撃的な印象を残した。毎シーズン、彼は少しずつ新しいものを提示。ペンシル型の薄いパンツ、80年代スタイルのブルゾン・ジャケット、大胆にカットされたミニのオーバーオール、パステルカラーのコンバットパンツなど。彼の親しみがあり気取らない態度とあいまって、彼の評価は上昇。これにより、新生バレンシアガをアピールする。
2000年10月、ニコラはVHI・ヴォーグファッション・アワードで「アバンギャルド・デザイナー・オブ・ザ・イアー(avant-garde designer of the year)」受賞。1年後の2001年、CFDAのインターナショナル・デザイナー・アワード(国際賞)と「ウーマンズ・ウェア・オブ・ザ・イアー」受賞。ヘラルド・トリビューン紙の有名なファッションジャーナリスト、Suzy Menkesは、「彼の世代の中で最も興味をそそられるオリジナル性を持つデザイナー」と語り、クロエ・セヴィニーは「私はバレンシアガを崇拝します」とコメント。ケイト・モスは「私はたくさんバレンシアガを持っているけど、まだ足りない」と話し、ニコール・キッドマン、シャルロット・ゲンズブール、マドンナも彼のファンと伝えられている。そして、彼の才能に目をつけたのが、グッチグループであり、トム・フォードとドメニコ・デ・ソーレであった。
2001年7月グッチグループがバレンシアガを買収し、株式資本の91%を所有した。グッチグループは今後、数年にわたって、市場を広げるべく世界の主な首都に旗艦店を開くことを計画するとの声明を発表。この買収には、老舗ブランドをグッチ・グループに取り込むという意味以上に、ニコラの才能を評価してのものと見られている。買収金額は明かされなかったが、以後、バレンシアガはグッチ・グループ傘下の独立した会社として展開されることなった。パスカル・ペリエ(Pascal Perrier、イヴ・サンローランの副社長、その前はセリーヌジャパン.の常務)が、CEOに就任。ニコラ・ゲスキエールは引き続きクリエイティブディレクターを務める。「バレンシアガはファンタジックな才能を所有しています。それは、ニコラ・ゲスキエールです」と、ドメニコ・デ・ソーレ。「これは、ニコラの希望でもあります。ですから、私たちは、バレンシアガを買うことを決めました。ブランドは適切な投資を得ていませんでした。今、それは行われるでしょう」とデ・ソーレは付け加えた。
2003年にニコラは、インタビューアーの「将来、自分のブランドを開始したいと考えていますか?」との質問に対して、「多分、僕はバレンシアガを救ったと思う。でもね、それ以上にバレンシアガは僕を救ってくれたんだ。もちろん、いつかは自分のシグネチャーブランドを始めてみたいとは思ってる。でもね、それは今じゃない。今の仕事で僕は幸せだし、バレンシアガでの仕事は自分の仕事を見せるには最高のスクリーンなんだよ」と語っています。
2006年タイム誌が選ぶ「世界で最も影響力のある100人」の「アーティスト・芸能」部門にニコラ・ゲスキエールが選ばれる。タイムによると「過去2シーズンのコレクションはとても素晴らしく、ゲスキエールはファッションに今、何が必要なのかを理解しています。ニコラには他が持っていないビジョンがあります」とのこと。
2006年7月パリのMuseum of Fashion and Textilesで「Balenciaga Paris」展が開かれる。オープニング・ゲストには現デザイナーのニコラ・ゲスキエールに加え、アナ・ウィントゥアー、ジェニファー・コネリー、ヒュー・グラント、ステラ・テナント、シャルロット・ゲンズブール、アズディン・アライア、Deeda Blair、Julie Gilhart、マーサ・スチュワートらが参加。クリストバル・バレンシアガのデザインが147点、ニコラが23点の計170点のデザインが展示されている。「ニコラは本当に天才です」とアライア。「これがもし、芸術でないというなら、私は何が芸術なのかわかりません」とマーサ・スチュワート。
2006年リステアとのジョイントベンチャーで、今後5年間で20-25のインショップと路面店を設立し、日本での売上構成比を4分の1まで引き上げる方針が明らかにされた。2007年8月1日のうめだ阪急を皮切りに8月17日にシブヤ西武、8月22日新宿タカシマヤ、9月29日大丸神戸店、10月上旬名古屋三越栄店にオープン。直営店では、バッグなどのアクセサリーをはじめ、ウェア、シューズまでそろったフルコレクションを展開。直営店オープンを記念した特別カラー、「シルバー・ゴールド」「シルバー・グレイ」「シルバー・ダーク」の3色で作られたバッグとミニパースが、数量限定で販売される。
2007年秋に開始するバレンシアガ・ブランドのサングラスとアイウェアを生産・販売するためのワールドワイドなをライセンス契約をSafiloと締結した。ニコラ・ゲスキエールがデザインを担当する。契約期間は5年。
2008年10月Cotyはバレンシアガと「バレンシアガ」ブランドのフレグランスラインを製造・展開するライセンス契約を締結。バレンシアガは1946年に開始したデビューフレグランス、Le Dixから2007年まではJacques Bogartとフレグランスのライセンスを結んでいた。
公式サイト
Balenciaga(英語のみ)
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