Givenchy  ジバンシイ France

歴史・解説

デザイナー、ユベルト・ジバンシイ(Hubert de Givenchy、正式にはジャン・ユベール・ジェーム・トラフィン・ド・ジバンシィ)は、1927年2月10日、フランス・ボーヴェで父が公爵位を持つ貴族の家に生まれた。幼くして父と死別し、ゴブラン織り業界の指導的立場にあり、タペストリー工場を営んでいた祖父のもとで育つ。法律家になるべく教育を受けたが、10歳のときにパリ万博エレガンス館で見たシャネルやランバンの仕事が忘れられず、バレンシアガに憧れてパリに出て、17歳でジャック・ファットのメゾンに入る。その後、ロベール・ピゲ、ルシアン・ルロンなどを経て、スキャパレリへ。そこで、才能を認められ、スキャパレリの右腕としてモデリストとなり、ヴァンドーム広場のブティックを任される。

1952年2月2日、独立して自らのブティックをオープン。同時にコレクションを開催。「べッティーナ・ブラウス」と「セパレート」、ワイシャツ地で作られたドレスを発表し、そのエレガンスな感覚が衝撃を与える。この時に初めてジバンシイはセパレートというスタイルを生み出した。「ベッティーナ・ブラウス」とは当時のトップマヌカンで、ショーに友情出演していたベッティーナ・グラジアーニが着ていた黒いひだ飾りのついたコットン・ポプリン製の開襟ブラウスのことである。これがアメリカのバイヤー達の間で評判を呼び、「ベッティーナ・ブラウス」と呼ばれることとなった。ジバンシイはわずか24歳にして「モードの神様」と呼ばれ、その後も次々と、53年の果物や野菜をプリントしたドレス、55年のシャツドレス、サックドレス、ウエストもヒップも強調しない若々しいシュミーズ・ドレス、58年ベビードール・ドレスなどを打ち出し、シンプルでスポーティ感覚にあふれながらもそのエレガンスさを表現したコレクションは多くの人々に支持された。

また、女優オードリー・ヘップバーンのデザイナーとしても知られ、「麗しのサブリナ」、「昼下がりの情事」、「パリの恋人」、「ティファニーで朝食を」、「シャレード」、「パリで一緒に」、「おしゃれ泥棒」、「華麗なる相続人」など多くの映画衣装も手がけた。58年のジバンシイの香水「ランテルディ」は、ヘップバーンが「私以外は使わないように」と語ったことから「ランテルティ(禁止)」と名づけられた。

57年、パルファム・ジバンシィ設立。初のフレグランス「De」発売。61年にはメンズ・フレグランスもスタートする。68年にはプレタポルテの「ジバンシィ・ヌーベル・ブティック」を開設。インテリア、香水など多くの部門を持ち、78年にはデ・ドール(金の指ぬき)賞受賞(82年に2回目のテ・ドール賞受賞)。憧れのバレンシアガが、68年にオートクチュールを閉店するときに職人と顧客を引き継いだことでも知られている。また、三宅一生は68年からジバンシイのアシスタントをしていた。73年、メンズライン「ジェントルマン・ジバンシイ」スタート。

88年、前年にパルファム・ジバンシイが買収されたのに続き、LVMHはジバンシィ・クチュールを買収する。当時はまだ、アルノーは登場しておらず、ルィ・ヴィトン社長のアンリ・ラカミエがMH(モエ・へネシー)と合併した頃である。ユベール・ド・ジバンシィ本人は95年末まで、デザイナー契約を結び、名誉会長兼芸術部門の責任者として、デザイナー活動を続けることとなった。問題は誰が後継者になるかということだった。そんな中、90年、初のメンズブティックオープン。93年、アクセサリー、ホームライン開始。95秋冬コレクションをもってジバンシィは引退。その後、LVMHの実験を握ったベルナール・アルノーはジョン・ガリアーノをデザイナーに指名した。

ガリアーノは1960年ジブラルタル生まれのイギリス人で、6歳のときに両親とともに渡英。義務教育終了後、セント・マーティンに入り、テキスタイルを学んだ後、ファッション科に移籍。卒業制作のコレクション「アフガニスタンとヨーロッパの理想」がロンドンのブティック「ブラウンズ」のショーウィンドウを飾り、好評を呼んだことでブラウンズと5年間の契約を結ぶ。デビュー当初はジャケットをボトムに使った「さかさまの服」など、アヴァンギャルドさが話題を集めた。一方で、カッティングとバイアスの確かさにも定評があり、古典や世界中の衣装から、そのときのトレンドアイテムを巧みに自分のコレクションに取り込む能力が高く評価されていた。

ガリアーノによるジバンシィはメディアの注目を集めたが、96春夏と96秋冬の2回のみでガリアーノはディオールに移籍。後任に指名されたのがアレキサンダー・マックイーンである。アルノーは97年10月にマックイーンと3年契約を結んだ。マックイーンは1968年、ロンドン生まれ。16歳から19歳までサヴィル・ロウのギーヴス&ホークスでカッティングの技術を学んだあと、コージ・タツノに師事。ロメヲ・ジリで働いた経験ももつ。ガリアーノと同じくセント・マーティン(美術学校修士課程)を卒業後、「ヴォーグ」のスタイリスト、イザベラ・ブロウに見出され、コレクションデビュー。ロンドンニューウェーブの先駆者として「アンファンテリブル(悪魔の申し子)」と呼ばれる。マックインーンのジバンシィは優れたカッティング技術によりセンセーショナルを巻き起こしたが、昔からのジバンシィファンの一部は、そのセンスについていけなかったのも事実である。

2000年12月4日、LVMHによるグッチ買収騒動の余波を受け、グッチグループがアレキサンダー・マックイーンを買収。このため、2001年1月に行われる予定だったジバンシィの2001春夏オートクチュールコレクションは「準備不足」を理由に突如中止に。LVMHとアレキサンダー・マックインーンの契約は2001年10月まで残っていたが、LVMHはこれを延長しないことを決定。マックイーンは2001秋冬を最後にジバンシィを離れ、LVMHは2001年3月後任に、ロンドン出身のジュリアン・マクドナルドを指名した。

ジュリアン・マクドナルドは1972年、イギリス南部ウェールズ生まれ。学生時代にコウジ・タツノで働き、ブライトン大学を経て、96年ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(王立芸術大学院)ニットウェアデザイン科を卒業。カール・ラガーフェルドのアシスタントとして、シャネルのプレタポルテとオートクチュール、カール・ラガーフェルドのニットウェアを担当した経歴を持つ。97秋冬から自身のブランド、ジュリアン・マクドナルドを開始しており、そのセクシーなスタイルを注目を集めつつあった。

2001秋冬オートクチュールコレクションからマクドナルドのジバンシィがスタートし、初のコレクションでユベール・ド・ジバンシィとオードリー・ヘップバーンの頃のジバンシィを回想するようなショーを開催。かつての名作を再現したコレクションだった。ジュリアンはレディスのプレタポルテとオートクチュール、アクセサリーのデザインを担当。2003年8月23日青山ツイン東館1階に国内初の紳士向け路面店をオープン。2003年8月新フレグランス「ヴェリィ イレジスティブル ジバンシィ」発売。キャンペーンモデルはリヴ・タイラー。これをきっかけに2004年春夏から、ブランド全体のキャンペーンモデルをリヴ・タイラーが務める。

2003年12月、LVMHは、ジバンシィ・オムのクリエイティブ・ディレクターに英国のデザイナー、オズワルド・ボーティング(Ozwald Boateng)を起用すると発表した。彼は、メンズ・プレタポルテのファーストラインの全責任を受け持つ。
ボーティングは、サヴィル・ローでビスポークテーラリングの修業をした後、1995年に自らのブランドをスタート。2000年には、ブリティッシュ・ファッション・アワードのベスト・メンズデザイナーを獲得。現在はパリ・コレクションで発表されており、ミック・ジャガー、デビッド・ボウイ、サミュエル・L・ジャクソン、キアヌ・リーヴスらが顧客として知られている。

2004年1月、ジュリアン・マクドナルドは4月の契約終了に伴い辞任するとテレビ番組で発言。後継者は決まらず、ジバンシィは2004秋冬のオートクチュールコレクションはランウェイショーは行わないと発表した。

2005年3月、レディスの新クリエイティブディレクターにイタリア人のリカルド・ティッシ(Riccardo Tisci)を起用すると発表。Tisciは7月の2005年秋冬オートクチュールコレクションでデビュー。クチュールに加えレディスのプレタポルテ、アクセサリーコレクションを担当。「ジバンシィに加わり、自分のビジョンを、この伝説のクチュール・ハウスで担当できることを大いに喜びます」とTisci。ジバンシィのCEO、Marco Gobbettiは、「彼の才能、モダンな創造性、エレガンスは、ジバンシィの将来のために必要です」と発表した。

Tisciは、1975年イタリアのコモ生まれ(姉7人に妹一人で兄弟のうち男は彼だけらしい)。17歳からデザインをはじめ、ロンドンのセント・マーティン在学中にアントニオ・ベラルディのアシスタントを務め、1999年に自らのブランドを開始。彼のシグネチャーはミラノで発表されている。2003春夏コレクションにはデザイナー&アートディレクターとしてコカパーニも手がけていた。

公式サイト

Givenchy(英・仏語のみ)

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